幕 末 の 万 葉 調 歌 人 平 賀 元 義 遺 墨 展....
2012/5/14日(月)〜15日(火)、2日間お行われました
幕末に主に作北を流浪した歌人平賀元義は、美作地域の神職を中心に多くの門人を持ち、国学や歌学を教授していました
恋の歌を素直に詠むことから吾妹子(わぎもこ),先生と呼ばれ、生前は不遇な人生を歩みましたが、没後正岡子規により特異なる万葉調歌人として世に紹介され、一躍その名が知れるようになりました
筆跡にも特徴があり、その遺墨は現在で、も多くの人に珍重されています
今回はそれらの和歌幅や、門人たちの短冊、また平賀元義研究書籍なども多数出品公開されました
平 賀 元 義 略 歴
寛政十二年(1800)岡山藩中老池田志津摩の士、平尾新兵衛長春の子に生まれ、幼名は猪之助、のち七蔵。喜左衛門また丹介といい、直満・義元・直元・元義などと称した
号は石楯・楯之舎主人・備前処士など。学問に直接の師はなくほとんど独学にて国書を渉猟、国学を究めたが、先学賀茂真淵に私淑して万葉調の和歌を詠じた
天保三年(1832)以降、退藩して播磨・四国・山陰の各地を遍歴。その生涯は常に不遇、一生を漂治の旅の連続に終えた
作北の元義門人は神職や、村長(むらおさ)を中心として数十名がいたが、安政四年(1857)には矢吹経正らの尽力により、勝田郡飯岡に『楯之舎塾』を開設した
この年十二月には『山陽道名所考二編美作巻』を刊行、また門人の大沢深臣が『巨勢総社千首』一編・二編を刊行した
元義の本領は大いなる敬神家・勤王家にあって、それは当時としても他に比類なきもので、あった
その根底には黒住宗忠の勤王思想があるともいわれる
安政六年(1859)には『楯之舎塾』を閉鎖し、再び作州各地の門人の問を流浪、慶応元年(1865)、六十六歳にして備前国の路傍に倒れ、その一生を終えた
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