作品は津山藩のお抱え絵師、鍬形慈斎を主人公にしたミステリー仕立ての時代小説 意斎は江戸に住んでいたが、津山城本丸御殿が火災にあった際に焼失した襖(ふすま)絵を描くために来津し、1年ほど滞在した 物語は、老中だった松平定信からの密命を受けた海山滞在中の活騒を揃いたものである
平茂 寛氏 津山市在住、1979年東京農工大を卒業し、県職員になる 農業普及指導員として津山、真庭など県北に勤務 50歳を前に小説家になりたいと思い立ち、執筆を始めた 「地元を題材にした物語を書くことで、津山や岡山の名前が全国に広がれば、という思いが強かった」受賞作は3作目で、初出版となる
竹内 佑宜氏 公益社団法人津山市観光協会会長 著書に「作人画人伝」「平賀元義を歩く」日本文教出版。「康哉写楽」「植原六郎左衛門伝」ほか多数
鍬 形 斎 と は 江戸浜町の竃河岸【へっついがし】に生まれる 俗称に三治郎、三二郎などがある。 父は駿州興津L静岡県}出れ後に赤現氏の養子となり、 江戸に出てきてからは畳屋を生業とし人である 恵斎は、幼少の頃から絵を好み、絵の才能を認められて北尾重政の門人となった 初めの仕事は弱冠十五歳で三二郎の名で描かれた黄表紙仕立ての絵入り咄本『小鍋立【こなベたて】』<安永七年,(1778)刊>の挿絵である その後、黄表紙の挿絵を中心に百七十作品余りを描いている、重政の門人には、他に北尾政演【ぎたお・まさのぷ】(山東京伝〉・窪俊満【くぼ・しゅんまん】などがおり、この三人で北尾派三羽烏と言われた 天明元年(1781)に重政から北尾政美【まさよし】の名を貰い、武者絵、浮絵、烏瞰図などを描いた この頃の代表作に絵半切れ『江都名所図絵<えどめいしょずえ>』や黄表紙『鴎鵡返文武二道』【おうかがえしぶんぶのふたみち】』寛政元年(1789))などがある 仕官申し渡しが為されたのは寛政六年(1794)五月二十六日、江戸の津山藩御用番御年寄黒田要人宅であった そこには年寄山田主膳が同席し、月番交代の大目付川上藤九郎同道のもとでの申し渡しである 津山藩の記録によれば政美は大役人格御絵師として召出され、十人扶持を与えられ、また絵具代を毎年三両支給されたことがわかる そして、同時に剃髪するべきことと、勘定奉行配下になったことを知ることができる 翌六月四日に北尾三二こと北尾政美は改号を藩に申し出、新たなる号の寫ヨが認められている しかし北尾政美が鍬形姓を名乗るのは、なおこれより後のことである 津山藩主松平康哉が亡くなったのは寛政六年(1794)八月二十六日、それは浮世絵師北尾政美が召し抱えられて約三カ月後のことである つまり、津山藩にとってはこのような大変な事態の直前に、北尾政美の仕官が認められていたことになる 実は、津山藩が北尾政美を御用絵師として登用した寛政六年(1794)、江戸藩邸には、御留守居定助として廣瀬臺山がいた 当時四十四歳、壮年にしてその藩主の、信頼を一身に受けていた臺山は、この北尾政美の仕官を康哉の身辺近くにいて、いかにみたであろうか 北尾政美はこの後、浮世絵師時代のなごりを唯一留める北尾姓を捨て、祖母の実家の姓であるという鍬形姓に変え、名も紹真に改めた ここにおいて、形のみとはいえ、ついに浮世絵師北尾政美が完全にこの世から消え、あたかも別人の如く津山藩御用絵師鍬形恵斎が誕生したのである、時に恵斎三十三歳であった 仕官後の恵斎の画業は挿絵・絵本の類の製作は続けたものの、黄表紙の絵などは自戒して、おもに軽妙な筆致の風景、風俗画に新境地を開いた また、肉筆画、また略画以外にもいわゆる当時流行した名所図会の類も多数残しており、「江戸一目図屏風」(文化六年(1809)刊)などがある 『近世職人尽絵詞【きんせいしょくにんづくしえことば】』(文化元年〜三年(1804〜6))は肉筆画の傑作と言われており、恵斎は、この作品で絵師として独自の地位を不動のものにLた 津山藩のお抱え絵師になったが、登用後もほとんど江戸に在住して、津山には文化七年から八年(1810〜11) に藩主松平斉孝【なりたか】に随行して一度行ったのみである 文化八年(1811) には小十人組に昇格し、文化九年(1812) には画号を本姓であった赤羽からとって羽赤と改号した.....文政七年三月二十二日に江戸で没した