『 廣 瀬 臺 山 二 百 回 忌 記 念 展 』....
2012/10/13日(土)〜14日(火)、2日間展示されます
日 時 : 平成24年10月13日(土)、14日(日) 入場無料
場 所 : 旅館お多福 (津山市山下・新開地)
主 催 : 作州維新文庫
津山藩士で、文人画家として高名で、あった廣瀬臺山は文化10年(1813)、10月13日郷土津山で歿しています
今年はその200回忌の年にあたります。それを記念して近年に確認された廣瀬臺山作品10数点の書画幅や、著書を中心に公開します
なお、時の藩主松平康哉や、友人の片桐蘭石・井岡桜仙・環中、また、門人で、あった飯塚竹斎の秀作数点も展示します
この機会にぜひご高覧頂きたいと思います
廣 瀬 臺 山 略 歴
廣瀬臺山は宝暦元年(一七五一)、津山藩士廣瀬義平の長子として生まれた
幼名を義太郎、勝八のち周蔵といい、名は清風、字は穆甫、通称は雲大夫といった
号は臺山の他に、六無居士、書画斎などがある
儒学を細合半斎に、書を岳玉淵に、画を福原五岳について学んだ。敬愛する藩主松平康哉のために草したとされる『文武雅俗淫渭弁』(ぶんぶがぞくけいいベん)は、三十六歳の時に著わしたもの。老荘釈教の教えを斥けて、もっぱら熊沢蕃山・貝原益軒の学の必要を説き、為政者が持つべき思想の本質について熱く語っている
江戸の文人達との交友は広く、老中に就任した白河藩主松平定信や米沢藩主上杉鷹山などの諸大名から、雲室・片桐蘭石・松崎慊堂・谷文晁・菊池五山・大窪詩仏まで、当時一流の文人たちと交わった
また寛政の三博士と呼ばれた古賀精里・柴野栗山・尾藤二洲など大学者にもよく知られており、当時の臺山はまさしく作州津山藩の顔で、もあった
その臺山は日常生活の中において「詩・書・画」の研績に情熱を注ぎ、特に「詩は志をいうもの」との立場に徹して、文武兼備のサムライとして本分の啓蒙に勤めた
また臺山の画はその人格から、秀麗にして重厚、品格ある山水画を主なるものとしている
なお、霊山はその人生のほとんどを江戸勤めで過ごしたが、晩年の文化八年(一八一一)津山に帰国し、二年後の文化十年(一八一三)に歿している
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