今年はちょうど飯塚竹斎の没後150年の年にあたります
これを記念し、ささやかではありますが、竹斎の作品20点余とともに、その最も尊敬した師の廣瀬臺山の作品数点も展示致します
飯 塚 竹 斎
寛政八年(一七九六)津山藩士広瀬氏に生まれ、のちに飯塚家(津山藩士・百石〉に入り、与作を名乗った
名は?、字は君鳳、号は竹斎のほか筆飛将軍、少陽、季秋など
若き時代に描かれた六曲屏風には九如という号も確認される
津山藩士小島石梁の推薦で臺山に入門したが師事できたのは短期間、江戸に出てからは谷文晃に師事したとも...
現在、郷土において確認される竹斎作品は百点以上、生涯においては千点以上の作品を描いたであろう
山水画はもとより人物画や花鳥画を得意とし、長崎派や西洋派の影響が感じられる濃密な作品も残している
若い時代は奔放な性格から生活が乱れ、藩からおとがめを受けたことも知られるが、三十歳を期として本格的に画業に励んだと思われ、その非凡な才能を開花させていく
天保時代から弘化時代、すなわち竹斎四十歳代から五十歳代にかけて優品が多く、師廣瀬臺山に次いで、美作国津山を代表する画人として位置づけられていた、御用絵師さながらに度々藩から画業を仰せつかってもいるのも特筆すべきことである
弘化四年(一八四七)頃から隠居、中風症に悩まされたが、終生、画筆を離すことはなかった
文久元年(−八六一)没し、墓は西寺町妙法寺にある、時に六十六歳であった
|