津山郷土博物館
博物館だより19年10月1日号原稿

当館所蔵「西東三鬼文庫」について

西東三鬼は、近代、津山の生んだもっとも著名な作家の一人といえるのではないだろうか。

津山郷土博物館の前身、郷土館時代に、ご遺族から三鬼の蔵書が津山市に寄贈されており、 いまの郷土博物館に収蔵されている。

これも一般にほとんど知られていないが、1,000点以上の雑誌、書籍などの貴重なものがあり、 三鬼自身が編集した最初期の「天狼」「断崖」「激浪」、角川の「俳句」誌など、 本人生前の第1級資料ばかりである。

この蔵書一覧を見ると、三鬼という人の内面が分かり、楽屋裏を覗くようで大変興味深い。

もし、本人が生きていたなら、覗くのをやめてくれというかもしれない。

意外なことがいくつかある、俳句関係のものが多いのは当然だが、宇野浩二の本が目立つ。

夏目漱石も好きだったようで、個人全集はこれが唯一だ。哲学書、特に実存主義のものが多い。

俳句関係では山口誓子を除いては石田波郷が多い。

津山市に寄贈されているのが蔵書のすべてではないだろうが、民間会社の社内報など、 自分が関与した名もない小雑誌なども律儀に保存してある。

「女たらしの遊び人」というイメージが強い三鬼だが、貧乏人に優しかったという三橋敏雄や鈴木六林男の、 嫉妬に近いような証言も、肯ける。

三鬼は、歯科医専を卒業してすぐにシンガポールで歯科医を開業していただけに、英語は得意だったらしく、 英書も何点かあるが、ほとんどジョークやユーモア系のものばかりで、人気者三鬼の知られざる秘密の種明かしを見るようである。

自伝といえる「神戸」「続神戸」「俳愚伝」など、散文作家としても第1級の文章を残している三鬼だが、 性格的には趣味で蔵書をもったり、誇ったりするような人ではなく、所有している本はほとんど実際に読んだ形跡がある。

五木寛之は三鬼のことを「ドストエフスキー的人物」といっているが、三鬼の蔵書に「カラマーゾフの兄弟」と「悪霊」の岩波文庫版があって、 実際愛読していた形跡がある。

津山市の出身で、関西学院大学文学部の哲学教授、のちに院長も務めた故久山康氏は、大正6年の生まれで、三鬼より17歳歳下であるが、 京都帝大時代いわゆる「京大俳句」に関係し、昭和12年12月19日、京大俳句5周年記念大会の俳句の寄せ書きに、三鬼と一緒に名前が載っている。

日本のキェルケゴール研究では先駆者の一人だった久山教授の愛読書の一つが岩波文庫の「カラマーゾフの兄弟」で、 よく読みこんだらしい薄汚れた本を授業に持参し、舐めるようにページを繰っておられた姿を筆者(佐野)は記憶している。

同じ津山市出身(久山教授は津山市二宮の出身)で、同じ「京大俳句」に関わった両者が、同じような薄汚れた岩波文庫の「カラマーゾフ」を読んでいるのを想像すると、 この時代の思潮というもの、そして、片や「キリスト教哲学教授」、片や「俳壇の寵児」と、小さな文庫本という組み合わせに、 ほのぼのとしたものを感じる。

とはいえ、「カラマーゾフ」は世界文学史上もっとも深遠な内容をもつ小説のひとつではあるが。

ちなみに、寄せ書きの三鬼の句は「算術の少年しのび泣けり夏」、久山康氏の句は「梅雨の夜男犇く風呂の戸に」である。

三鬼は、サルトルよりもカミュを好んだらしい。ハイデッガーやヤスパースの本もあり、何を思ったのかキェルケゴールの名のついた本さえある。

いまでは実存主義などと十把一絡げでいわれるが、戦後まもなくのころとすれば、かなり早い時期の読者だったのではないだろうか。

フロイトもよく読んでいる。

"寒夜明け赤い造花が又も在る"

という句が実存主義の句であるといわれたこともあるらしいが、間違っているだろう。

この句は、津山市の宮川にかかる城北橋の柱に、自筆のものが刻まれている。

三鬼関連の資料は、蔵書ばかりではなく、手紙、色紙、短冊、自筆原稿、写真、愛用の文具なども当館に所蔵しているが、 一部常設展示のほか、ほとんど市民の目に触れる機会がない。

これらの公開も、津山郷土博物館の課題の一つである。(佐野綱由)