津山郷土博物館
岡山県 津山市観光協会

津山郷土博物館
佐 野 綱 由

「 島 原 の 乱 」 〜 歴 史 の 脇 役 ....津 山

いま、旧津山城宮川門の石垣の一部(旧城南医院下)を積み直し工事中である
この宮川門を含めて、旧津山城に入るためには、七か所の門があった
今日では、その七つの場所を言い当てることのできる津山市民は少ないであろうが、中でもこの宮川門は、今日、門の痕跡がなく、最もわかりにくいものの一つであろう
さて、この稿の標題に掲げた「島原の乱」と津山城宮川門と何の関係があるのかと怪しむ向きもあるかもしれない
寛永一五年(一六三八)四月四日、九州小倉城には、島原の乱の戦闘終結後約一月たったこの日に、幕府側で奮闘した九州諸大名が集められた
一揆側、三万八千人皆殺し、幕府側、十二万四千人動員、数千人の武士を失い、四十万両の出費という、多大な犠牲を払ったこの一揆は、戦国時代を総決算する、最後の大合戦であった
この日、幕府からも使者が送られ、ねぎらいの言葉があったが、一方、この大事件の原因究明も同時に行われ、終戦後すぐに幕府の命により、島原藩主・松倉勝家は小倉藩主小笠原右京大夫によって身柄を拘束されたらしい
このとき幕府は、どういうわけか、島原藩主の身柄を美作国津山藩主・森長継に預けることを命じた
四月一四日、九州小倉藩小笠原家の武士五人、徒歩(かち)足軽多数という、厳重な警護がついて出発、陸路はるばる美作国津山、いまの岡山県津山市山下、藩の重役・湯川治兵衛屋敷(いまのJSS津山温水プールあたりか)に着座、幽閉した
津山藩からは重役・森采女、原十兵衛が備前金岡(岡山市西大寺)まで迎えに行ったが、陸路、海路の行き違いというおまけもついた
次いで、幕府は、松倉勝家と従者二人を、江戸の芝増上寺近くにあった津山藩下屋敷に移すよう命じた
五月四日、これまた、津山藩から赤座主殿など五人の武士、徒歩、雑賀(忍者)・足軽など厳重な警護をつけて江戸に向けて津山を発った
津山藩江戸屋敷では、幕府大目付、かつ初代宗門改役でもあった井上筑後守政重がしきりに訪れ、厳しく尋問した
その結果、一見キリシタン宗門徒の反乱のように見えた島原・天草の一揆は、実は島原藩主松倉勝家とその先代、重政(一六三〇年死去)の父子二代にわたる虐政によるものとされ、農民の虐殺死体が松倉の屋敷から出てきたことで罪状は決定的となった
勝家は、最後までキリシタン宗門徒の反乱であると主張したが、退けられ、死罪が言い渡され、津山藩江戸屋敷で打ち首になった(森家先代実録では切腹
従者一人は翌日斬首。もう一人は放免、首をはねたのは、津山藩徒歩、福本与右衛門)江戸時代、大名・藩主が打ち首にされた例は他にない
松倉の遺骸は、最初引き取り手がなかったが、奇特者が現れ、近くの金地院という寺で火葬にされたとある(徳川家旧蔵東京大学本「島原記」)
それから約三七〇年、平成二四年春、旧津山城宮川門跡の石垣修理工事の現場に立ち、はるか昔の、はるか九州、はるか江戸で起こった大事件に想いを馳せてみる
さらに三七〇年後の宮川門はどうか?

− 佐 野 綱 由 −

(写真説明)森長継時代の津山城周辺、藩の重役の屋敷地図
宮川大橋西詰めの大番所を川に沿って北に行くと、最初の門が宮川門、これを入って正面の石垣が、現在工事中の箇所で、旧城南医院下になる。当時は行き止まり
左折して旭門を抜けると、「湯川治兵衛」屋敷、いまのJSS津山温水プールあたりか.....
「森采女屋敷は、現津山郷土博物館〜雇用労働センター、「関式部」屋敷は、いまのハローワーク、「原十兵衛」屋敷は、お花の怪談の舞台、現在は一部NTT

津山城下図
津山城下図