津山郷土博物館
岡山県 津山市観光協会

文化財めぐり
院庄周辺の史跡を訪ねて
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第 90 回 文 化 財 め ぐ り 〜院庄周辺の史跡を訪ねて〜
津山市院庄近辺は中世美作の中心部であったと考えられます
土塁を持ち、美作守護所跡とも推定される院庄館跡、その南約500mのところにある中世の平城である構城跡など、中世を中心に古代から近世にかけての史跡をめぐりました

平成23年6月4日(土)、当初5/28(土)に予定された行事ですが、雨のため一週間遅で行われました
午前10:30 JR院庄駅に集合
[院庄駅前集合]〜[睨み合いの松]〜[清眼寺見学]〜[院庄構城政見学]〜[院庄館跡見学]〜昼食〜[作楽神社見学]〜[中須賀舟着場石灯篭見学]〜解散(15:00)

地図
JR院庄駅
案内人: 乾 康二さん 津山市郷土博物館 学芸員
〒708-0022 津山市山下92 tel:0868-22-4567
flv-ipod....携帯 iPhone iPod android(2.2以上)でも視聴できます(写真をクリック)
地図

睨み合いの松 @ 睨 み 合 い の 松
慶長8年(1603)、森忠政が美作一国を拝領して入国した際、鶴山に城地を決定する前は、院庄構城跡が候補地になっていました
その修築にかかった頃のことです、忠政の寵臣名護屋九郎右衛門が父祖の代から森家に仕えていた重臣の井戸宇右衛門に「君命なり」と叫び斬りかかったが、反対に宇右衛門に返り討ちにあうという事件がありました
宇右衛門も周囲に居た人々に討たれ、弟の甚三郎、惣十郎も差し向けられた刺客によって討たれたと伝えられています
この井戸兄弟の墓と九郎右衛門の墓が往来をはさんで南北にありそれぞれに松が植えられ、一方が盛んになると、もう一方が衰えるということが繰りかえされ、「睨み合い」の松と呼ばれるようになったということです

地図

 清 聴 寺 A 清 聴 寺(院庄胎文)
清眼寺は山号を極楽山といい、開基は不明ですが、山名時氏が祈祷所としていたと伝えられています
(但し、時氏は美作守護をしておらず、美作守護をしていたのは五男時義)
貞享5年(1688)7月、津山森藩の家老長尾隼人勝明は院庄に残された後醍醐天皇と児島高徳の故事を顕彰し、後世に伝えるため、藩主森長成に計り、館跡を整備し、東大門跡に石碑を建立しました
しかし、石碑といえども長い年月の間には磨滅損壊することもありうるため、同年9月その経緯を全377字から成る文に自ら書き留めて、これを清眼寺と院庄村島田家にその保存を託しました、これが院庄胎文です
また、この寺には「貞孝母子の碑」で知られる島田馬之丞とその妻子のお墓もあります

地図

院庄御茶屋跡 構 城 跡 B 院 庄 御 茶 屋 跡
江戸時代院庄村には津山藩の御茶屋がありました
御茶屋とは藩主のための休憩施設で、御茶屋守(番人)を於いて、常時管理されていました
江戸時代を通じて、藩主がこ宮、院庄方面に出かける際に利用されています
また、藩主だけでなく、他の大名が出雲往来宅通行する際の休憩施設としても利用され、津山松平家と縁戚関係にあった出雲松江藩の松平家もよく利用していました
C 構 城 跡
構城は中世の平城で、築城年代は不明ですが、太平記の頃(14世紀後半)には築城されていた可能性があります
最後の城主は備前の宇喜多方であった片山氏といいます
「森家先代実録」には「方五十間(50間四方)」と出てきますが、近年の発掘調査により正方形というよりは少し歪んだ台形であったと推定されています

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院庄館跡 院庄館跡 D 院 庄 館 跡 (作楽神社)
院庄館跡は、鎌倉時代から室町時代かけての美作守護所と推定されています
古代の美作の中心地は津山市総社にあった国府でしたが、鎌倉時代に入り、初代美作国守護として梶原景時が任命され、次いで和田義盛、その後北条氏一門が歴任しましたが、これら守護の地方支配準化のために守護館が築かれたのではないかと考えられます
また、室町時代になると、館跡の南南西に安国寺が築かれました
全国的には安国寺は地方政治の中心地に置かれたことから、室町時代にもここが美作の中心地であったことがわかります
津山市による発掘調査の結果、現在残っている土塁に内部に井戸、掘立柱建物が存在しており、また、青磁・白磁、墨書土器などが出土しており、館の存在を裏付けています

地図

中須賀舟着場石灯籠 E 中 須 賀 舟 着 場 石 灯 籠
吉井川西岸、錦橋西詰に3基の石灯籠があります
そのうち向かって左端の1基は金比羅灯篭で嘉永七年(1854)と刻まれており、元は高瀬舟の船着場にあったと伝えられています
残る2基は内宮・外宮と刻まれており、明治元年(1868)の刻字があり、出雲往来の南北に置かれていたそうですが、姫新線工事のために移転されました
これらは昭和10年代頃まで、常夜灯として毎日点灯されていました
また、灯篭に刻まれた寄進者には播磨地域の人名もあり、当時の人や物の交流がしのばれます