@ 睨 み 合 い の 松
慶長8年(1603)、森忠政が美作一国を拝領して入国した際、鶴山に城地を決定する前は、院庄構城跡が候補地になっていました
その修築にかかった頃のことです、忠政の寵臣名護屋九郎右衛門が父祖の代から森家に仕えていた重臣の井戸宇右衛門に「君命なり」と叫び斬りかかったが、反対に宇右衛門に返り討ちにあうという事件がありました
宇右衛門も周囲に居た人々に討たれ、弟の甚三郎、惣十郎も差し向けられた刺客によって討たれたと伝えられています
この井戸兄弟の墓と九郎右衛門の墓が往来をはさんで南北にありそれぞれに松が植えられ、一方が盛んになると、もう一方が衰えるということが繰りかえされ、「睨み合い」の松と呼ばれるようになったということです
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