河野美術館
津 山 市 観 光 協 会

河野美術館
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絵画
絵 画
人形展

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他・館内

河野美術館
開館時間:午前10時〜午後5時
開館日:土、日、のみ、入場無料
TEL:0868-23-4285
河野美術館

津山市観光協会
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診療所

洋風を取り入れ大正時代に建築、城東地区の苅田酒造の道の向かいに建物がある
元医院であり、今でもその名残を至るところに見られる

河野美術館....河野磐
父 稲太郎 医師。津山が市政をひくと同時に死去の年まで津山市医師会長、母 ちかの 私が絵の道に進んだのは母の影響
*大正九年一月十九日(1920)生れ。 昭和七年(1932)津山男子尋常高等小学校卒、 私が小さい頃の津山は今とちがって文化咲き乱れ、ほとんどの有名人をこの津山で観て育った
*昭和十二年(1937)岡山県津山中学校卒。(現 津山高等学校) 中学校時代、盲腸を二度して弱ったが、以来七十歳の半ばまで、病気もしなかった、――頭脳は悪くなったが...
*昭和十六年(1941)国立京都高等工芸学校卒。(現 京都工芸繊維大学) 学生生活は順調。世界情勢は緊迫していたが、卒業して物憂いまま過ごしている時、上斎原村の橋の上で戦争勃発を知る

診療所
診療所

*昭和十七年(1942)岡山県美作高等女学校、津山女子商業学校 教諭。 明日の日が如何なるかもわからぬまま満州国を約一カ月。やがて召集令状。 北支山西省から河北省へ。やがて万里の長城で終戦を知る。 蒙古自治政府宣北省延慶縣察哈爾省八達嶺の警備を終え、その年の暮れ津山に帰着
*昭和二十三年(1948)学制改革により岡山県美作高等学校、岡山県美作中学校 教諭。 混乱の中でも生きがいのある面白い時代だった
*昭和二十六年(1951)退職。東京移住。 当時の東京は敗戦後特有の活気あふれる街。 しかし、私はやがて百数十円の持金しかない非常事態となる。友人に救われ、東京チャペル・センターに勤務。アメリカ施設の中で不思議な生活をおくる

国会議事堂の前であったが、右側は廃墟のまま。激しいデモも、美智子妃の皇居への出入りも。その皇居を巡る道は1st streetと呼ばれ、お濠には無数の都島が乱舞していた。やがてそこも終り、あとはフリー・デザイナーとして生計を得た。 そして故郷の地に出来た大学に勤務するように進められ、その時思い切って、外国旅行をと、1967年ドイツ・スイス・イギリス・フランス・スペイン・イタリア・オーストリー・デンマークを訪れた
*昭和四十三年(1968)美作女子大学、美作短期大学 教授。 演劇に華を咲かせたのはこの時である。 そして1973年イギリス。1974年ソビエト連邦。1982年ドイツ再訪。
*平成二年(1990)定年退職。 そして2000年オーストリー再訪。
*平成十四年(2002)懐かしの故郷我家に帰る。 そしてここを私の美術館とする

診療所
診療所
「乙女の湖」1934年
診療所
「美女と野獣」1946年

戦後のあの頃。虚脱状態と生きる歓びが複雑に交錯した日々が流れていった
ただ心の底にゾクゾクするような解放感、はじめて自分らしい生き方が出来るのではないかという欲望、そして期待があったことは確かだった
日々の糧を得ることにせいいっぱいだったそんな時、私は映画館に、かつて映画史上に光彩を放った秀作がひっそりと上映されているのを知った
上映作品の欠乏のためGHQの検閲をまぬがれた古い作品が、混乱した配給ルートにのって流れていたのである
一枚のチラシもポスターもないままに、 こんなことを見のがしていいのだろうか。訴えたかった。情報を分かち合いたかった。人々に手をのばし、呼びかけ、注意を惹きつけたかった。幸に賛同グループを得ることが出来、それを行動にやっと移すことが出来た。やむにやまれぬ気持で考え出した一つの宣伝方法が、私のこの手描きポスターという形式だった

出来るだけ経費をかけないで、制作に労力的負担がかからないように、そして効果があがるように――と 実のところ、あの戦争のさ中、それらの映画を二度と再び観ることが私の人生にあろうとは思っていなかった
戦争の拡大と共に、本邦最後の上映として、つぎつぎに外国映画が日本中の映画館から姿を消していったのだから。映画はかつて前衛であり、最も尖鋭な人たちの生命のほとばしる<場>だった
作るものにとっても、それを受け入れるものにとっても。また、映画によって<人生を考え、感動し、衝撃をうけ、影響されながら生きた>一つの世代があったことは確かである

東光展
 私のポスターとしては、全国的に配布された唯一のもの。私の所属する東光会は、東京展のあと、大阪、岡山、広島、長崎、鹿児島、熊本などへ毎年巡回展があるので、会期と場所を刷り変えて各地の美術館、展示ホールに貼示された
原画の油絵の印刷効果がよく、会本部からの製作の推薦依頼を感謝している
1976(昭和51年)

診療所

診療所
ロミオとジュリエット
診療所
桜の園
診療所
絢爛たる日
診療所
幽玄花抄

 東京から故郷津山へ。またまた生活の場と職業が変わり、今度は、”大学”の教壇に立つという初めての経験
創設されたばかりの大学
未完成の、まだ将来の見えない、しかもヤングパワーの燃焼している激しい社会風潮の中で、若者たちは動揺していた
 青春を如何に生きるか――ここで、演劇の自主公演が始まった。学生と私とが何の経済的基盤もないまま社会にうって出るという無謀とも思える冒険、暴挙にもひとしい活動が始まった
創りだすためには、たとえ乏しくとも経験と蓄積が、そしてその泉を常に満たす努力の必要を感じながら、 脚本、演出、演技指導、美術、装置、衣裳は勿論、選曲にまで手をのばし……自主公演以外にもギリシャ悲劇、シェイクスピア、ワイルド、ロルカなども取りあげて、演目は前衛、アングラをさけて、古典と大作にいどんだ
それにしても、若者たちの心と躰の中にじっと潜む創造力や表現力がふつふつと湧き出して、思いもかけない斬新な”舞台”をみせてくれる時の喜びは大きい
こういう馬鹿げた世界に足を踏み入れたことのない人には、全く理解出来ないことだが、私としては、この”馬鹿げた世界”を知らずして人生を過ごすことのほうが哀れに思える
 演劇活動によって、ほんとに多くのことを知り、学び、また心の通いあう若者や友人を得たことを感謝している

 旅――
私は、旅することがそれほど好きではない
自分から心を躍らせて旅することを思いたった経験は少ない
絵を描くものとしては異例なことであろう。その理由はいたって簡単。計画するという喜びを知らず、乗物におそろしく弱いからである
したがって、国内はもとより、外国になると一般の人達に比べてその経験はいたって少ない
でも、旅への情熱と行動力の少ない私だからこそ、老いを迎えた今、数少ない旅の記憶は、自分自身を力づけ、ある種の自信をもたせ、瓦礫の中に妖しく光る小さなビーズ玉のようにいとおしい。――
何十年も前のことを整理しているうちに、紙きれに書きつけたヨーロッパの旅のことが出て来た
別に旅行好きではない私は、あえこれ見て満足したり感激した結果が楽しかったのではなくて、あれほど完全に<生活>ということを忘れて、ただ消費してゆくだけの日々に身をまかせ、孤独でおられたことが素晴らしいことだった

診療所
ドイツヴュルツブルグ
診療所
ドイツマーブルグ
診療所
オーストリー
診療所
ドイツマーブルグ
診療所
オーストリー
診療所
フランス
診療所
ストラッドフォード・アポン・エーボン
診療所
ベニス

生活してゆく――ということを考えないでおられた期間があんなにも私をのびのびさせたことを、また改めて認識したことは、むしろ今後のことには支障をきたしたようだ
月日のたつにつれてこの疎外感、と記している....ぼつぼつ、すべてを断ち切るときがやってきた